日本人の原点 その3 & 大晦日

暮れの閑暇に関裕二著「邪馬台国とヤマト建国の謎」を読了しました。
 
以下、著者の見解に左右されたわけではありませんが・・・
魏志倭人伝に記述された邪馬台国は、九州のいずれかの地にあったと考えるのが自然でないかと思います。
近畿、おもに奈良盆地を中心とするヤマトは、卑弥呼の住んでいた邪馬台国ではなく、まったく別に存在した政権だったと思います。
ただし、ヤマトは、後に、鉄を求めて、難所の多い瀬戸内海を北部九州へ交易または略奪に向かったことでしょう。
 
後漢末期からの三国志(魏・呉・蜀)の三国時代の魏の国からの使者は、狗邪韓国対馬国一大(支)国を経て末廬国(旧松浦郡・唐津市) へと渡り、伊都国(糸島市~福岡市)、奴国(福岡市)、不弥国(福岡県宇美町)、投馬国(?)、邪馬台国(?)と記述しています。
最後のふたつの国が古来論争のネタになっていて、いまなお、どこかは不明ですが、邪馬台国畿内説は、地理的に飛躍しすぎます。

たぶんとしか言えませんが、邪馬台国は、北部九州の長崎・佐賀・福岡・大分、そして、熊本の北部あたりのいずこかだっただろうと推察します。
水路を利用したというのは、玄界灘有明海瀬戸内海の西(九州)寄り、または、筑後川遠賀川などの大河でしょう。
なかでも、有明海は、地形の関係で、干満の差(潮差)がなんと6mもあり、舟を漕がずに移動できるんですよ。
 
ところで、奴国の王が朝貢して授かった?漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)印(漢代の一寸四方、1辺2.3cm余)は、かつて、東京国立博物館で鑑賞したことがあります。
この金印は、志賀島(現・福岡県福岡市東区)で江戸時代天明年間に水田の耕作中に甚兵衛という地元の百姓が偶然発見したとされています。
邪馬台国の時代には、倭国大乱で争いが絶えなかったそうです。
この金印は、奴国の国王が、敗走するときに、復活の日にはと、石の下に埋めて逃げたのかもしれません。
 
なぜ争いが絶えなかったのかは、もとを辿れば、縄文時代末期に日本に稲作が伝来したことでしょう。
狩猟採集の時代には、多少の縄張りがあっても、戦にはならなくて平和な時代だったようですが、稲作には、もちろん土地が必要で、その周辺に人々は定住しました。収穫した穀物は高床の建物まで作って貯蔵しました。
しかし、不作の年もあり、しばしば食料の奪い合いが始まったことでしょう。
さらに、大陸からは、銅や鉄、そして、鋳造・冶金技術ももたらされました。それが、農耕用の道具だけでなく、いつしか石の矢じりが、刀剣にかわり戦の世となりました。
 
今年は、宇宙開闢の謎やら、縄文・弥生時代まで、おぼろげに知ることができました。👍

shirakobato2.hatenablog.com

 

www.yoshinogari.jp

さて、来年のテーマは? なにを楽しむことにするかな。
 
大晦日はひとりで晩酌・・・
そして、明日は孫宅でお正月を迎えます。
例年、じーじが用意することになっているおせちもイオンから届きました。少し、足りない分の刺し身には和製カルパッチョ、そして、お雑煮の具の用意をします。
そして、今夜は、まだもう少しだけ長生きできるようにと(苦笑)年越しそばをいただきます。
 
今日の名言:
 
「欲がない人間」「好奇心のない人間」に用はない。 盛田昭夫(ソニー創業者のひとり)