棚田米 & 魏志倭人伝と吉野ヶ里遺跡 

故郷・佐賀の親戚から今年も新米を送っていただきました。
格別の棚田米です。
昔は、実家からときどき送ってもらったり、通販で取り寄せていたこともありましたが、久々の美味しい棚田米です。
ビニール袋ではない厚手の紙袋入りです。
 
棚田米「蕨野」

九州北部の佐賀県(一部、福岡県、長崎県)には、東西に延びる筑紫(つくし)山地(高いところで、標高1000m前後)が走っていて、その一部を脊振(せふり)山地と称します。
県は、北は玄界灘、南は有明海に面していますが、その脊振山地の北側の一部は、いまはほとんど市町村合併で唐津市、南側の一部は佐賀市で、その境で、唐津市に合併した相知(おうち)に、日本の棚田百選に選ばれている棚田があります。
江戸時代から人力で積み上げられてきたという石積みの棚田です。
棚田米「蕨野」のブランド名で販売されていますが、米の品種は、この地で作出された「夢しずく」です。
棚田の上には人家がなく清涼な水と、土地の高低差による日中の気温の大きな寒暖差の中で稲が育ち、美味しい米ができます。
炊きあがると粒が立って、光っていて、別格の旨味があります。まさに銀シャリ中の銀シャリです。
 
棚田の下、筑紫山地の山間には、鉄道も道路も走っていますが・・・
 
相知町は、かつては、東松浦郡相知町でした。
松浦魏志倭人伝に記されている魏の使者が対馬壱岐を経由して、最初に上陸した国が倭国末廬(まつろ)で、その末盧が変化して、松浦となったと考えられています。
玄界灘に面した唐津は、古くは唐の津と呼ばれていたそうで、大陸との交易の要衝でした。
 
一方、脊振山地の一部の筑紫山地の南側は、玄界灘側よりも少し温暖な筑紫平野、その一部は、佐賀平野で、米どころです。
 
佐賀平野の東部には、稲作がわが国に伝えられ、始まったころと軌を一にして存在した、弥生時代の遺跡の中でも最大級の吉野ヶ里遺跡があります。
末廬国から吉野ケ里の間には筑紫山地(脊振山地)が聳えていますが、一部に南北を結ぶ峠道があり、古来、その道があって、末廬国を経由して吉野ヶ里へ大陸の文化が伝わったか、末廬国の一部の人々が、より温暖な南へと移住したのかもしれません。
また、吉野ケ里は、漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)の金印が江戸時代に偶然見つかった現在の福岡市の旧志賀島村あたりとも、そう遠くはないところに位置しています。
末盧国奴国吉野ケ里を結ぶとおおよそ三角形になり、その好位置に当たる吉野ケ里ですが、遺跡調査は、まだまだ続くでしょう。
新しい発見に期待しつつ・・・