蚕起食桑

ちょうど今週1週間(20~25日)は、二十四節気の第8番目の第22候蚕起食桑 (かいこおきてくわをはむ)」の節気ですね。
 
今回もLUPICIAのティーバッグの袋のコピーです。
肝心のに商品名が被っていましたので、物足りない絵柄ですが、雰囲気だけでもと・・・😁

埼玉県内も、西部・北部で昔から養蚕が盛んだったそうですが、養蚕農家は、いまでは10戸ほどだそうです。
 
明治時代には日本で最初の官営製糸場、富岡製糸場が建設され、昭和40年頃には、全国でもっとも多く、7万戸以上だった群馬県でもわずか60数戸だそうです。
 
先日も記したシルクロードによる交易も一時期盛んで、中国起源で8千年にも及ぶ歴史をもつ養蚕ですが、レーヨン(人絹、人造絹糸)、ナイロンなどの人造繊維(化学繊維)の登場で、残念ながら、次第に廃れていっていますね。
 
習近平総書記だけは、いまなお、一帯一路(シルクロード経済ベルトおよび21世紀海上シルクロード構想)にご執心ですけれどね。😁
 
もうずいぶん昔になりますが、息子が県北西部の本庄市のW大高等学院に通学していた時代、年に数回 X 3年の間、父母会に出席していた頃には、帰途、本庄市内や近隣を訪ね回っていました。
当時の児玉郡児玉町は、現在、本庄市児玉町ですが、往時を偲ぶ養蚕農家だった住宅が残っていました。
養蚕がとくに盛んだった群馬県に隣接しています。
 
これは、その後、3度目に、写真仲間を誘って出かけたときの数枚です。
蚕を飼育するため屋根の上に温度、湿度を調節する小屋根が付いた、いまはたぶん、住宅です。
この地域は「高窓(たかまど)の里」と呼ばれています。

 
すぐ近くの成身院百体観音堂
天明3年(1783年)に起きた信州・浅間山の大噴火の犠牲者を弔うために建立されたという、珍しい外観2層、内部3層で、階段ではなく螺旋構造の回廊で、さざえ堂の別名があるお堂です。

余談ながら・・・

このときの、浅間山大噴火で、火山灰はたぶん、偏西風に乗って、東に流れ、江戸、銚子にまで達し、ほぼ関東一円に堆積した火山灰は、関東ローム層にもなり、当時、農作物にも大きな被害をもたらしたそうです。

富士山や浅間山の噴火は、地球・日本の歴史から見れば、ほんのほんのちょっと前の出来事だったことは忘れてはなりませんね。

 

俳句:

 

せりせりと 蚕は桑喰む 昼冥(くら) 宗像ひで